ディスコダンスの種類や背景を時代から思い起こす!

ディスコダンスの種類や背景を時代から思い起こす!

ディスコでダンスしている様子70年代~90年代までディスコのダンスの種類は時代ごとに流行が様々で大変なつかしく思います。

ディスコダンスがどう変化していったか?自身の経験から年代ごとに背景とともに綴ります。

70年代のディスコダンスは基本ステップ

70年代ディスコのダンスの種類70年代のディスコと言えばソウル系にて、とにもかくにもステップが基本の時代。前後左右斜めと曲によってステップのパターンが細かく決まっており、それをダンスホールにいるみんなで揃えて楽しんでいたようです。

上手な方はステップによって腰から上半身がステップから流れるように連動するカッコよさ!横浜で生まれた「フリチャチャ」は有名で、横浜意外の関東圏の方々は「ハマチャチャ」と呼んでいたようですね。

わたしは80年代に入ってディスコデビューしましたので、当時をリアルでは経験しておりませんが、テレビ番組の「ソウルとんねるず」にてフリチャチャを踊っている大人を見て、カッコいいし楽しそう!と思ったことを記憶しております。

当時は、まだ幼かったのでディスコという言葉自体、大人の社交場というなんだか手の届かない世界と感じておりました。ここ最近、時代は繰り返す?ステップを取り入れたダンスイベントが開催されてますね。どんな曲がかかってもすべてのパラパラを踊れる感覚と一緒なのかもしれません。

それほど、曲ごとに演じられる複雑で華麗なステップは凄いと思います。

80年代のディスコダンスの種類

80年代からは私のディスコデビューした年代ですので、まさにリアル体験。と、言いましても80年代前半のブレイクダンスが流行っていた頃はまだ中学生ですのでリアルではなく、中盤あたりからですね。

その頃の大型店舗は2パターンに分かれておりました。

パターン①
ミラー型
ダンスホールは店内の壁際に設けられ、その壁に張られた大きなミラーを見ながら踊るディスコ。東京の新宿でたとえると東亜会館に入っていた全ディスコ  GBラビッツ等。
パターン②
フリー型
ダンスホールは店内の中心部に設けられ、自由な方向を向き踊るディスコ。東京の新宿でたとえるとゼノンやニューヨークニューヨーク等。

ミラー型のディスコは横一列に並び、自分や周りのの姿を見ながら踊るというなんだか異様な空間であった気がします。わたしのデビューは新宿の東亜会館であり、当初は「ディスコはこういう感じなんだ!」と、ゼノンに行くまではそう思ってました。

そしてゼノンに行き、わたしはフリー型のディスコのみに通いつめました。常連が輪を作って激しいそれぞれオリジナルのダンスを披露するなど楽しかったのですが、お店側からは輪を作らないようDJさんが呼びかけてましたね。懐かしいです。

しかし結局は、仲間同士集まってしまうという展開。とくに激しかったのが「Dance with me」や「Dance your love away」などの曲がかかった時であったと思います。常連同士仲がよければよいのですが、そうとも限らずダンスホールの縄張り争いのような展開にて小競り合いから始まり、乱闘そしてつまみ出されるというケースも多々。

あとは常連が他の常連のグループの女性に声かけてもめるとか、若さゆえにハチャメチャであった気がします。80年代中期のディスコはハイエナジーが大人気であり、通常の曲ではとくに決まった踊り方もなく、足を左右にステップするくらいでしょうか。ですのでこの頃のディスコは初心者でも溶け込みやすかったと思います。

ディスコ慣れした女性などは足を横向きにして左右交互に前に突き出すスタイルが多く、足の細い子がミニスカに黒いストッキングとヒールのセットでそれをおこなうと大変いろっぽくてSEXYでしたね。

第一次パラパラブームの到来

そして87年頃から第一次パラパラブームがやってきます。この頃のわたしは完全なマハラジャフリークでした。パラパラといってもこの頃のパラパラは、代表的な曲の盛り上げディスコミュージックのサビあたりに決まった踊りがあるくらいです。

それぞれのディスコの従業員やDJさんがそのお店独自のパラパラを披露し、お客さんがそれを見て覚えるといった感じですので別の店に行ったら違う振り付けという状態。なんだかんだで2年~3年は代表的な盛り上げ曲のみにそのような展開が続いたわけです。

ヒップホップダンスに憧れる

そして「パラパラってダサくね?」「いまさらユーロビートって?」と言わんばかりに、89年に横浜のサーカスが六本木の ディスコビルであるスクエアビル 10階にTHE CIRCUS ROPPONGIとしてオープンし、ブラックミュージックヒップホップニュージャックスウィングに火が点きます。

また「J」というブランドをひっさげて、「J TRIP BAR」が渋谷・六本木・溜池・西麻布そしてなんと苗場スキー場にまでオープンさせ、ハウスミュージックに火が点きます。とはいえユーロビートもディスコキッズには並行して愛され続けました。

しかしブラックミュージックによるヒップホップダンスの勢いは凄かったですね。マイケルジャクソン~ジャネットジャクソンやボビーブラウンの日本での大ヒットもそれに拍車をかけ、「俺を見ろ!」「わたしを見て!」と言わんばかりに男女ともに自身の練習したダンスを披露するためにダンスホールは大盛況。

マイケルジャクソンのムーンウォークからはじまり、ボビーブラウンのランニングマン(3代目j soul brothersのスローテンポ版)とロジャーラビットとロボコップは皆が真似をして競ったものです。

ダンス番組盛況

そしてそのブームに更に油を注いだのが、2つのダンス番組(当サイト記事:懐かしのディスコ番組 参照)

テレ朝の「DADA L.M.D
恵さんとRIKACOが司会で会場は東京マハラジャ。マハラジャの昼間に撮影がおこなわれ、我こそは自信ありというダンサー(自称)がダンスホールにてフリーで踊り、そのダンスを審査し絞っていきその週のチャンピオンを決めるという流れの番組。
ZOOを生んだのがこのDADA L.M.Dですね。ていうかEXILEHIROさんを生み出した番組といったほうがわかりやすいでしょうね。

 

日テレの天才たけしの元気が出るテレビ内の「ダンス甲子園
現在議員である山本太郎さんが高校1年の頃に「メロリンQ(キュー)~!」とお笑い役として叫んでいたわけですが、れっきとした本気でダンス日本一を目指す若者たちが競っていた本気ダンス番組です。
この番組で王座を獲得した九州代表のL.L BROTHERSのうまさは他を寄せ付けず凄まじかったですよね。

ところでどこで知識を得て練習したのか、たとえば代表的なランニングマンやロボコップなど誰が見てもめちゃくちゃ下手にもかかわらず、我こそが1番と汗だくになって披露している奴って必ずいました。

見ているとめちゃくちゃイタい(汗)。サラリーマンが帰り道にスーツ着てやってるなんて光景も(笑)。恥ずかしいからあのようにはなりたくない!と肝に銘じて私もめっちゃ練習したことが本当に懐かしいです。

ちなみに私は、ZOOのTACOさんがおこなっていたレッスンコーナーとL.L BROTHERSの踊りをビデオに撮って何度繰り返し再生したかわかりません。実家2階の鏡の前で練習していて、1階にいる両親から「天井がうるさい!」と毎晩苦情(笑)

90年代のディスコダンスの種類

80年代の中盤から80年代末まで マハラジャ や King&Queen といった業界を牛耳っていた高級ディスコも90年代に入り時代とともに飽きられたのか、東京では客足も遠のいていっておりました。

そのようななかで、元気があったのがクラブのはしりともいえる芝浦の伝説のクラブ「GOLD」。ボディコンやアルマーニ系スーツでカッコつける時代は終焉か?と思われた頃、91年5月に芝浦に ジュリアナ東京 がオープンしました。

ジュリアナダンス今までの高級ディスコにはない巨大な空間と巨大なダンスフロアにお立ち台。サウンドの振動が伝わるフロアに雄たけびをあげるジョン・ロビンソンのマイクパフォーマンス!当初はあまりの大きさにガラーンとした空間も、当時はSNSなどない状況のなか、従業員の人脈、口コミやメディアの力により瞬く間に日本一の集客を誇るディスコへと変貌を遂げました。

ジュリアナでのダンスの種類はテクノハウスに応じた横ノリ系でとにもかくにも腰をいかにカッコよく振るかがすべてであり、ステップやブレイクダンス、ニュージャックスイングなどの特殊なダンスの種類は皆無であり、誰もがすぐに入り込めたことがジュリアナをあれだけの集客にできたのかもしれません。

とくに女性は、他の者とダンスで競うのは激しさやSEXYさ程度であり、いかに自己アピールできるかは身に着けるコスチュームやジュリ扇を代表とするアイテムでした。いかに目立つ ボディコン とアイテムを装備しお立ち台で「私を見て!私が1番でしょ!」という陶酔が彼女たちのステイタスとなり、そのステイタスが露出の過激さの方向に走るまでの時間はまたたくまでした。

東京のみならずその過激さは全国のディスコに広がり、東京と違い地方のマハラジャやKing&Queenはまだ元気を完全には失ってはいなくホールも広かったため、地方のジュリアナはココだ!と言わんばかりにブームに乗っかっており、一番過激であったのはジュリアナが衣装の過激さに歯止めをかけはじめられたあとの名古屋であったと思います。

地方のディスコは比較的吹き抜け天井の大箱のディスコが多く、ジュリアナブームの影響の恩恵は受けれたでしょう。逆に東京のマハラジャやKing&Queenなどは閑古鳥が鳴くような状況。

東京でジュリアナブームの恩恵を受けれたディスコは、吹き抜け天井の大箱の ラジオシティエリア 、また過激路線を突っ走ったロンドクラブくらいであったでしょう。

第二次パラパラブームの到来

そして過激コスチュームの超過→入店拒否→ジュリアナのお立ち台撤去というような流れで、ジュリアナ東京が閉店を迎える94年第二次パラパラブームが到来するわけです。このパラパラダンスは第一次のような簡易的なダンスではなく、曲ごとにほぼ全曲へ複雑な振り付けが施されるようになりました。

当初はエリパラと言われるエリアを代表とする日拓系列で生まれたパラパラが浸透していき、パラパラ教典というビデオまで発売されてブームとなります。

ビデオの中ではルナマティーノに身を包んだ男性1名と露出系の女性2名で構成されたグループが、華麗なパラパラダンスを披露しているわけですが、これを教本として覚えて日拓系以外のディスコへ出向くと少々パラパラの振り付けが違うという違和感を覚えた方も多かったようです。

パラパラの統一化

パラパラを踊る若者第一次パラパラブームは、各お店の黒服やDJさんが自らのお店用に振り付けをしかけましたが、そのお店の常連のみぞ知るというパラパラに関しては広く普及しておりません。

第二次パラパラブームも当初エリパラ主流ではありましたが、徐々にマハパラ(マハラジャ)へと移行していき、最終的には ツインスター が生み出すパラパラが都内のディスコ全店舗で統一されるようになりました。

どこのお店に行っても同じパラパラが踊れるというのは、パラパラフリークには好都合であり、各店舗の幹部の方々も多店舗の常連さんやとくに行きつけのお店を絞っていないフリークが来店してくれるので売り上げ的にもウェルカムであったでしょう。

ツインスターは第二次パラパラブームの波に乗り、パラパラといえば「ツインスター」とまで言われるパラパラダンスの看板ディスコとなり、毎週火曜日のHYPER STAR ENERGYには都内の学生がわんさか集まりました。

なぜならここで毎週新曲のパラパラ講習会が開かれるわけで、みんなに遅れずにいち早く新曲のパラパラをマスターしたいという方々がドッとつめかけるわけです。宮○さんの講習会はわかりやすかったなぁ。そしてこのあたりの時期になると、ただ振り付けを覚えらればよいというだけでなくパラパラダンスの「キレ」が重要となってきます。

パラパラのお手本

そうです。振り付けを覚えているのは当たり前、その振り付けをいかにキレがよくキレイに見せるか!がポイントとなったわけで、そのキレある華麗な代表格が「エナジーガール」と呼ばれる女性グループであり、パラパラ・サミットというシリーズでビデオが何本も販売されておりました。

パラパラガールズそして完全なるパラパラの完成形が第三次パラパラブーム初期のパラパラオールスターズ!とにもかくにも彼女たちの正確に揃ったキレはまさに芸術と呼べるほどのものであったわけです。完全に教祖というかアイドル化されておりました。

よく友人と一人暮らししている奴の部屋に集まって皆で練習したもんですよ!(汗)。「お前のパラパラは手が伸びきっていないからキレがなし!」「お前のBaby!は左手と右手の幅の距離が狭いからダサい!」なんて、友人同士指摘しあいながら練習してました。そしてルナマティーノに身を包み、頭を鶏冠のようにしてディスコへ繰り出していたわけです。

パラパラナイト営業

その当時は都内のディスコも曜日ごとにパラパラナイトと題し曜日を他店と被らないように設定していましたので、いつでもどこかのお店でパラパラを踊れました。その頃パラパラ好きが通っていたのは、ツインスター・マハラジャ・ラジオシティ・エリア・アルクス・ゼノンあたりですかね?大変なつかしく思います。この流れが4年くらいという息の長いブームとなった要因ではないでしょうか。

そして99年にはキムタクのバッキー木村キャラが「Night of Fire」を火切りに、長州小力などもウケて第三次パラパラブームが起こります。この時代のメイン店舗も第二次同様ツインスターだったようです。

この時期には第二次を支えた高級ディスコの多くは閉店をしており、私もこの頃にはすでにディスコを卒業していましたので第三次パラパラブームに関しては詳しくありません。

まとめ

時代ごとにディスコダンスは変化していき、その時期のトレンドも今となっては「懐かしい!」という心の中での宝物です。

70年代はステップの時代

80年代はブレイクダンスやヒップホップダンスにパラパラの時代

90年代はテクノハウスの腰振り、パラパラの時代

世界においても昔から祝い事にはパーティーが開かれ、種類は違えどそこには存在するというダンスというものは、人間の幸せの表現ともいえるでしょう。日本においても義務教育の中にヒップホップダンスを選択できるまでになっており、我々オヤジの時代では考えられないこととなっております。

はじめてのディスコでダンスというものと出会い → チークタイム時の男女寄り添うダンスに魅了され → ヒップホップダンスにのめり込み → テクノハウスで腰を振り → パラパラに没頭と経験してきましたが、年齢的に70年代のステップの時代は幼稚園児か小学生であったため経験できていないのは心残りです。

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