ジュリアナ東京 NHK特集番組から見た絶頂~終焉の実態!

ジュリアナ東京 NHK特集番組から見た絶頂~終焉の実態!

2019年9月にNHKのアナザーストーリーズにて1時間番組として放送された「ジュリアナ東京 最後の日~バブル狂騒 夢の跡~」。

ここ最近録画していたものを再度見なおしましたが、改めてNHKさんよくまとめられているなと感心いたしました。

見逃されたディスコフリークさんは、放送された内容と感想をまとめましたので、お楽しみください。

バブル崩壊後にオープンしたジュリアナ東京

バブル景気は、好景気の通称で景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。

上記引用から考えますと、ジュリアナ東京はバブル崩壊後の1991年にオープンしたことになりますが、当時はバブル崩壊の実感をさほど感じませんでした。

1991年(平成3年)3月から1993年(平成5年)10月までの景気後退期にあたるということで、ジュリアナ東京がバブルの象徴と言われるのは少し違う気がしますが、通っていたお客さんの気持ちはバブってましたね。

番組の開始早々、女子高生がキレッキレッのダンスを披露し話題となった「バブリーダンス」の映像がながれ、その原型とは? から始まります。その後、当時の全盛の頃のジュリアナ東京の営業中の映像が流れました。

ジョンが叫び、お立ち台はボディコンがギャルが狂喜乱舞!もちろん著作権などの都合上、ブログやYouTubeなどへのアップはおこなえないわけですが、その貴重な映像は本当に懐かしさを彷彿し、食い入るように私は見ました。NHKさん貴重な映像をありがとう!

ジュリアナ東京 最後の日 番組構成

1時間番組の中には

  • 第一の視点 : お立ち台の女王荒木久美子氏
  • 第二の視点 : 支配人の内藤氏
  • 第三の視点:ジャーナリストの都築氏
という3部構成で創られています。

そして冒頭に松嶋菜々子さんのナレーションにてバブル当時の用語解説からアッシー君、めっしー君、花金などが並ぶ中「お立ち台」が取り上げられます。

そこからさらにジュリアナ東京最後の日の映像が流れるわけですが、改めてその時代にムーブメントをおこしたお店のスケールの大きさを感じました。

総面積1200平米メートル収容人数1500人以上、全盛期は男性5000円女性4500円にて年間総売上20億円を超えたようです。

ジュリアナ東京を語るうえで外せない荒木師匠の存在

番組の中で時間的にも一番スポットをあてられていたのが荒木師匠(荒木久美子さん)でした

参考記事 荒木師匠(荒木久美子さん)の若い頃と今現在

荒木師匠(荒木久美子さん)のインタビューシーンの内容

お立ち台の女王荒木師匠(荒木久美子さん)といえば、お立ち台の伝説・カリスマとまで呼ばれた女性ですが、マスコミに取り上げられると同時にジュリアナ人気に拍車をかけた人物でもありながら、後期からはジュリアナ入店を拒まれた人物でもあります。

当時の荒木師匠(荒木久美子さん)はイベントコンパニオンの仕事をされていたようですね。幕張メッセやビックサイトの展示会などでイベントに華をそえるお仕事です。幕張メッセの東京オートサロンや東京ゲームショウ、ビックサイトの東京モーターショーなどは、多くのキレイなコンパニオンさんが立たれており、それを囲むカメラ小僧の光景は当時も今も変わりません。

荒木師匠とジュリアナ東京のつながりのきっかけは、コンパニオンのオーディションの帰りに、友達が「ディスコの招待券があるから行かない?」と誘われて一緒に行ったったのがジュリアナ東京であったそうです。

初めて行ったその日からお立ち台には上がったらしく、その日を境にジュリアナに目覚めて常連に。理由はかんたんで、「お手軽にヒロイン気分が味わえるから」と答えておられました。

荒木師匠とジュリアナのお立ち台の因果関係

荒木師匠は必ずお立ち台に上がる位置が決まっていたようです。それがエントランスを入って真正面に設置されたDJブースのすぐ右側のポジション。入り口から入ってすぐ目につくからという単純な理由とのこと。

またお立ち台には1軍2軍などの階級が存在したようです。荒木師匠を1軍のトップとして目をつけたのがマスコミであり、当時のテレビ朝日の深夜番組であったトゥナイトの中で「このディスコであなたが初めてセンスを使って踊った?」と言う内容でインタビューされている映像が流されていました。

思いっきり「ハイッ」と答えた荒木師匠。まさにジュリ扇の産みの親だった事実。

メディアからのボディコンギャルのお部屋を撮りたいという要望も受け入れ、当時の部屋の中でボディコンにジュリ扇を手に踊っている荒木師匠の映像も流されていました。

それをきっかけに番組から雑誌から多くの取材を受けるようになり、荒木師匠がマスコミに取り上げられれば上げられるだけ「お立ち台」が世に注目され、刺激されて足を運ぶライバル女性達、その光景やナンパ目当てに足を運ぶ男性も増えジュリアナの売り上げは右肩上がりだったと番組として振り返ってます。

たしかに女性はお立ち台の上にて女性同士で目立ちたい願望の競争が競演となり、男性は男性同士でその競演を視覚で楽しみ、あわよくばナンパしてゲットと、集客の相乗効果は抜群であったと思われます。

ジュリアナ東京のヘア出し問題

オープン2年目で経営陣の折口氏が去った頃、ある事件が起こります。それがフライデーに掲載された記事。パンティー狂乱!と言う見出しに、「ジュリアナ東京に突然出た“ヘアだし“ギャルだ」の記事。

支配人の内藤氏が番組内でも語っていましたが、事実は通常営業の写真でなく日中のパーティーの箱貸し中の写真であり、撮ったカメラマンが走って逃げたのを見て、黒服も追いかけたようです。

また過激なボディコンも公序良俗を乱す。ストリップ劇場なのか?などとスポーツ新聞などにも取り上げられました。そういった面から営業停止になることを恐れ店側の姿勢も揺らぎ、それからジュリアナ自体があまりにも過激な女性を入店拒否し始めました。

1993年12月お立ち台の撤去

お立ち台上の女性コスチュームの過激さをメディアが、煽れば煽るほど来場者は増加するも、当時の時代を席巻していたジュリアナ東京という有名な大ブランドであるからこそ、経営に目をつけられるようになります。

しかしお立ち台上の女性同士の競争の激化にてコスチュームの過激さが収まらないということで、店側がとった最終手段はお立ち台の撤去

この件に関しては、折口氏無き後の経営陣と支配人の内藤さんが率いる現場スタッフとの意見の食い違い。経営陣は「お立ち台がなくてもいける」に対し、現場側は「それではダメだ」と仲違いがあったようです。

内藤支配人の不安は的中し、お客さんは戻らなかった。それもそのはず、誰もがヒロインになれる場所ではなくなったからです。

この事態に荒木師匠は「低いところで踊ったって気持ちよくない!」と反発し、これではみんな他のディスコへ行くと発言。荒木師匠の言葉通りお立ち台撤去後、「ジュリアナは閑古踊りなる」という皮肉記事まで出現するまで悲惨な状態に。

店側は再度新たなお立ち台を作ったが時すでに遅し。理由は新お立ち台に上がれるのは店が認めた女性だけと定められたからです。過激衣装は消えたが客足は戻らなかった。この頃に門前払いボディコンとして荒木師匠が出入り禁止になりました。理由は新たなお立ち台への否定的な発言であったそうです。

↓ 撤去後に再度設置されたお立ち台と、加えられた一面モニター

現在もお立ち台の女王荒木師匠(荒木久美子さん)はイキイキとしていた

ジュリアナラストの日にも入店を拒まれた伝説カリスマと呼ばれた彼女。

現在の荒木久美子の仕事である婚活トレーナーの職場の様子が番組でも取り上げられていた。その最中に久しぶりにワンレンボディコンに身を包みジュリアナダンスを披露して解説。

あれから30年も経過したとは思えないスタイルなどの見栄えをキープしていると感じました。さすがに当時よりは少しぽっちゃりはしていましたが…

地方は本家より実は過激に

ジュリアナがオープンしたのが1991年。あれだけ一世を風靡したお店が3年半で突如閉店を迎えることになった一番の要因が、お立ち台の撤去から始まったのはご存じのとうりですが、実は本家であるジュリアナ東京のお立ち台上のギャル達よりも地方のディスコのギャルのほうが過激さは比ではなかったようです。

たしかに思い起こせば、当時のディスコ雑誌ヘブンズドアの地方取材のページにおけるギャルのコスチュームは凄かったことを思いだします。

理由としては、今のようにSNSもない時代であったからこそマスコミが取り上げる東京の流行が、ある一部をスポット的に取り上げることにより、歪曲されて地方に伝わり、地方のディスコに通うギャル達はメディアで見る東京ギャルに負けまいと、より過激になった事実。

当時の地方の様子を見た荒木師匠もその過激さに驚いたそうです。

ジュリアナ東京を語るうえで外せない内藤支配人とDJや黒服の存在

ジュリアナ東京があれほどブレイクした理由は?

内藤さんは語っていました。

「本来は仕掛けて流行るものだが、ジュリアナ東京は仕掛けではなくお客様の勝手な力」であると。その目に見えないパワーは最高に面白かったと発言。

番組で分析されたジュリアナ東京のブレイクの要素は3点。

  • 大きなダンスフロア
  • サウンド
  • 黒服スタッフたちの接客

ジュリアナ東京の仕掛人である折口氏のインタビュー

折口氏は良くも悪くも世間を騒がせた敏腕経営者。あの今は無きグッドウィルグループの創設者でもあります。

当時、大手商社の日商岩井に所属していた折口氏に、周りは倉庫街であった場所の有効利用が持ちかけられ、箱の大きさを非日常空間と感じ巨大なダンスフロアを設けたディスコがいいと発案。

しかし倉庫会社も商社側も冒険的な企画に二の足を踏んでいたそうです。しかし折口氏の凄いところが、商社が手を引いても個人名義で借金をしてオープンにこぎつけたところ。

折口氏がとった戦術はとにかく「最初から満員にする」。オープン前からマスコミを通じて大々的にPRし、無料招待券を大量に配りまくった。オープンからしばらくの間、大量の無料招待券で1000人規模が毎日のように集まり、その光景を目にした招待客からの口コミが拡散されていった。

10ヵ月後には有料の客だけで満員となり大ヒット!これはSNSのない時代に口コミだけで考えると恐れ入る。

ちなみに折口氏はその後、六本木の有名ディスコ「ヴェルファーレ」を手掛ける → グッドウィル・グループ創設 → ニューヨークでレストラン事業・投資事業 → 日本で投資事業などで、未だに敏腕を活かし経営に成功されているようです。

ジュリアナ東京の曲

あの大箱の中で徹底的にプレイされたテクノサウンドがお客さんを呑み込んだ。ジュリアナ東京のコンピレーションCDのシリーズ累計売上枚数は220万枚。

そしてジュリアナ東京の代名詞ともいえる曲「Can’t Undo This!!」。番組内では、作曲者星野さんの秘話や当時の音楽ディレクターの松森さんの感想が聞けました。

そして忘れてはいけないのが、そのサウンドチョイスとマイクパフォーマンスで盛大に盛り上げたジョンロビンソン氏を筆頭とした、DJさん達。

黒服スタッフたちの接客

番組では荒木師匠以外の常連客もインタビューされていました。毎週土日に参加し、とくに日曜日のレディースデーは無料でよく行った。「とにかくジュリアナに行けば友達が友達を呼び、誰かと繋がれた。」という意見。

当時の写真が満載に取り上げられていました。また彼女の発言では、「女性をお姫様扱いにしてくれるのがジュリアナは得意だった感じがした」、黒服さんも気配りとかワンランク上の対応をしてくれていたと感じたそうです。

支配人内藤氏インタビュー

日本中をブームで染めたあの大箱であるジュリアナ東京の絶頂から終焉までを知り尽くした内藤支配人。

支配人となった年齢が25歳であったというのには驚きました。

25歳の若さであのようなお店の全責任を背負っていたのだと思うと、凄いことではないでしょうか。

インタビューの頭では、トム・クルーズさんやシルベスタースタローンさん、Jリーガーの来店等の思い出を懐かしそうに語っておられました。

しかしこの件は私も知っていましたが、〇ク〇が店内で暴れ、注意し止めに入ったことがきっかけで、気が付けば救急車に乗せられ入院生活。またフロント付近のロープで区切る鉄柱近辺でもお店を守るための行動により、鉄柱で顔面を殴打され病院送り。

内藤氏は入院沙汰も何度か経験したようです。それはすべてのトラブルからお店やお客様を守るために生じた責任感のある行動であり、その時の傷が内藤さんの左目の横に今でもくっきりと残っている映像が流れました。それは身を呈してジュリアナを守った証。並の方では務まらなかった職務ではないでしょうか。

そしてラストの日、内藤さんの別れの挨拶の映像を現在の内藤さんが見ながら自分で感想を述べておりました。笑いながら「喋りがだめだな」と。いやいや相当立派ですよ。

その日を振り返り心境を語っておられました。「悲しかった。来ていただけている方々にもう会えなくなるのかな?っていうのもありました。」最後に「20代でしかできなかった良き思い出」と。

華やかな店内とは相違した近隣問題

番組内で芝浦の町会の元会長さんが語っておられました。

当時の週末は車と人とでジュリアナの周りはごった返し、ガードマンや警察も入り乱れていた。ナンパ目的にてジュリアナの周りをくるくる回る車が多数出現し、ナンバーは関東近県は当たり前で西は名古屋から北は仙台・福島・群馬とか。

またジュリアナの目の前に住んでいた人が語っていました。

駅から超ミニのボディコンに着替えた大群の女性たちが一斉に訪れてくる。その周辺には小学校とかもあり風生的な面で多々問題があったのではないか?と。

ジュリアナ東京は近隣住民にとってみれば迷惑極まりない場所であったそうです。人のたむろとか車の騒音で夜は寝られない、奇声を発したりゴミを捨てて行ったり。パトカーもしょっちゅう来ていたようです。

↓ ナンパ待ちにて路駐は一台の隙間がないほどに

あっという間の1時間

最後はナレーションの松嶋菜々子さんの「集まった人たちがしばし日常を忘れて楽しめる魔法の空間であった事は確かです」という言葉で締めくくられました。

当時を知るディスコ好きにはたまらない、ジュリアナ東京というものをよく理解できた素晴らしい番組でした。

ディスコ大好き人間で当時を知る私にとってとくに印象深かったシーンは

    • 1994年8月31日ジュリアナ東京ラストの日。全員入場無料にオープン前から別れを惜しむファンたちの過去最大の長蛇の列ができていた映像

 

    • 当時のジュリアナ東京で盛り上がっている満員のお客さん達の多くの映像や画像

 

    • ジュリアナ最後の日にスピーチをする支配人内藤氏の横で、非常に悲しそうな顔をしていた副支配人の高野さんが印象的であった映像

 

  • DJ達の「スリー・ツー・ワン・サヨナラベイビー」と言うマイクパフォーマンスと涙を流す女性客達の映像

3年半と息は短かかったのは事実ですが、それ以上に濃度が凝縮されたモンスター店であったジュリアナ東京を改めて再認識できました。

最後に、NHKさん!素晴らしい番組制作をどうもありがとうございました。感動しました。

参考記事  ジュリアナ東京 JULIANA’S TOKYO

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