成田 勝さんといえばマハラジャ。マハラジャといえば成田 勝さん。やはり80年代~90年代のディスコを語るうえで、絶対に不可欠な方が成田勝さんです。
当時の東京マハラジャの社長ですが、当時は若くて高身長でイケメンでベンツを乗り回し店舗を見て廻ったりと、とにもかくにもディスコを語る当時の若者には「神」と言えるほどのカリスマぶりでした。
けっこう東京マハラジャにいらっしゃっていたので、私も成田さんには顔を覚えてもらえただけで、本当にうれしかったものです。
そしてたくさん通って名前を覚えてもらい、一度だけマハラジャのVIPルームで成田さんとトランプをしたのが一生の思い出です。
成田 勝さんと呉さんが創りあげた東京マハラジャ
私の思い出す限りでは、成田さんは新宿のディスコで働いたあとスクエアビルのディスコ「パウワウ」でウェイターをしており、後に店名は「キワニス」となりました。
そこでもウェイターを続けますがそののちに、スパッツというライブハウスでマネージャーをやっていました。
その当時マハラジャ生みの親である大阪発祥のNOVAグループは、東京でもすでに六本木のホテルアイビスに高級志向のラジャコートというディスコを出しており、ここも流行ってました。
そんな際に、NOVAグループの社長であった今は亡き菅野さんの目に留まって、東京マハラジャを任せられるようになったのが、成田勝さんです。
呉常務と共に
東京マハラジャの立ち上げを任された際に、成田さんが一番に声をかけたのが「パウワウ」で一緒にウェイターをやっていた呉さん。
東京マハラジャがオープンした麻布十番は、現在のように大江戸線が走っておりませんでしたので交通の便は非常に悪く、六本木の駅から歩いても相当な距離がありました。
そんな立地条件をものともせず、あれだけの顧客やファンを掴んだのは成田勝さんと呉さんの手腕であったことは確かであると思います。
従業員の方への指導は厳しかったのかもしれませんが、成田さんは凄く優しかったです。
呉さんに関しては、従業員の方の皆が怯えてらっしゃったので私も怖くてお近づきになれたことはありません。
大人になった私が思うには、飴とムチではありませんが、成田さんのカリスマ性と呉さんの厳しさを2人があえて演じて東京マハラジャを偉大なKing of Discoに造り上げたのではないでしょうか?
成田 勝さんはディスコ界のカリスマ
話は戻りますが、本当に成田さんはカリスマでした。
成田さんの当初出したレコード(CD)「イントゥ・ザ・ナイト」(カップリングは「ギブミーアップ」)は深夜番組のエンディングにも採用され、遂には夜のヒットスタジオにまで出て歌ったほどです。
しかもバックコーラスが中森明菜・アンルイス・シンディローパー等という豪華っぷり。まさにバブルの絶頂時!?
カッコ良すぎます♪
そのあとは、バラード曲や「カウント2テン」「ジャイブ・イントゥ・ザ・ナイト」などを出しますが、やはり成田さんと言えば、「イントゥ・ザ・ナイト」!この前奏と歌声が大好きです。逆に本家本元のマイケル・フォーチュナティーの方はまったく興味なくなりました。
当時は、マハラジャかKing&queen以外のディスコでは、当然マイケル・フォーチュナティーのほう側がかかるので、その時は特に成田さんのアレンジされた側の「イントゥ・ザ・ナイト」の素晴らしさを改めて感じたものです。
そういえばマハラジャの閉店LAST営業の最後もこの曲で締めくくられました。
現在の成田さんは、プレゴマハラジャ、六本木しゃらら亭などを経営されているようです。
マハラジャ閉店以来お会いしてませんが、今でも甘いマスクは健在なのでしょうね。私は上の動画の頃の当時の成田さんのまま心に閉じておきます。
「みんな。ブリッといこう!」わかる方にはわかる成田さんのクチグセ(笑)
【ディスコ好きが集まり、ライブで語り合うチャンネル】
YouTube▶ バブル ディスコの舞台裏【マハラジャ風ノンストップディスコミュージック】
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