今では聞かれない「ディスコクイーンコンテスト」。
そもそもディスコという言葉自体が死語となりつつあり、昔のディスコと運営形態は変わるが今の若者の間でいう「クラブ」と位置付けられる空間。
ところが「クラブクイーンコンテスト」なるものも聞いたことはない。
時代の流れであろう。
80年代~90年代初頭に多く開催されたディスコクイーンコンテスト
そもそもディスコクイーンコンテストはディスコ全体もしくは各店舗内等の大小はあれど若者の遊び場(人気スポット)での「ミス日本」のようなものであり、多くのグループや店舗で毎年のようにおこなわれていました。
「ディスコクイーンコンテスト」という名のとうり、当時のディスコでお店の看板になるような花のある女性が選ばれる。
ディスコが夜の遊び場として定番であった時代にクイーンに選ばれることは、受賞女性にとってはそれは大変嬉しいステイタスであったと言えるでしょう。
多くのケースの流れですが、選考された女性陣が番号の付いたワッペンを胸に付け、ディスコのお立ち台でダンスを披露。
審査員から評価を受け、決定されるという流れであり、
評価委基準は
- 容姿(スタイル含めたもの)
- ファッション
- ダンス
となるが、80%以上は容姿で決定されていたといっても過言ではないでしょう。
ですので審査員の好みなどがダイレクトに反映され、運も大きく左右されたのではないでしょうか。
時代の流れとともに、ジャンルが変更され
- パラパラクイーン
- ダンスクイーン
- ボディコンクイーン
などと名称は変わるものの、ディスコでは定番の企画であった。
とくに昔のMAHARAJA(マハラジャ)のディスコクイーンコンテストは群を抜いていた
なかでも昔のMAHARAJA(マハラジャ)のディスコクイーンコンテストは特別なものであった。
それもそのはずでありマハラジャ系列の店舗は
- MAHARAJA
- MAHARAJA WEST
- MAHARAJA EAST
- King&Queen
- MAHARAJA CLUB
- MAHARAJA物語
- その他MAHARAJA SALOONやMAHARAJA PRODUCEなどサブタイトルの付けられた各系列店舗
全盛期にはNOVA21グループ直営店・フランチャイズ店など合わせて全国に60店舗以上展開されていた人気マンモスグループであり、その全国の選考から勝ち抜いてTOPに君臨するクイーンはまさに当時の正真正銘のディスコクイーンと言えたでしょう。
決勝はハワイのホノルルにオープンされたMAHARAJA(マハラジャ)にておこなわれ、決められるという一大イベントであった。
ちなみに当時若者の間で人気を誇った「Fine」という雑誌モデルをされていた現在歌手のhitomiさんが、マハラジャクイーンコンテストのオーディションの書類選考で落ちてしまったが、その書類をきっかけに小室哲哉氏の目を惹きデビューまでいたったのは有名な話である。
さてそのようなクイーンに与えられたのは名誉だけか?
そのような企画は時代も援護し大きなスポンサーが名をあげ名誉以外にも賞金やプレゼントもすごかった(下段ポスター参照)。
MAHARAJA(マハラジャ)クイーンコンテストポスター
以下が当時のポスターです。
MAHARAJA系列の店舗には、毎年店内のあらゆる箇所にたくさん貼られておりました。
第6回MAHARAJA(マハラジャ)クイーンコンテストポスター
第7回MAHARAJA(マハラジャ)クイーンコンテストポスター
全国のMAHARAJA及びKing&Queen店舗フリーパスはもちろん理解できます。
しかしここからが凄い
予選を勝ち抜いただけで決勝の舞台のハワイへ5泊7日間ご招待
受賞者は
- ヨーロッパ旅行カップル
- トヨタの車
- 振袖・袋帯セット
- ジュエリー
- 賞金50万円
- 高級腕時計
今の時代では考えられませんね。
しかしこのような企画がおこなえたMAHARAJA(マハラジャ)の当時の他の追随を許さない向かうところ敵なしのパワーに、今さらながらではありますが驚嘆です。
【ディスコ好きが集まり、ライブで語り合うチャンネル】
YouTube▶ バブル ディスコの舞台裏【マハラジャ風ノンストップディスコミュージック】
YouTube▶ ディスコメモリーちゃんねる
大阪ミナミのマハラジャ物語についてご存知でしょうか。
働いていた人などおぼえていらっしゃいますか。