ディスコ90年代のまとめ

ディスコ90年代のまとめ

90年代のディスコは91年のバブル崩壊と同年に産声をあげた伝説のディスコであるジュリアナ東京やクラブとして圧倒的支持を得た西麻布のイエローを代表とし、80年代のディスコ黄金期を築いたお店の閉店ラッシュと共に「ディスコ」から「クラブ」への移行期間であった年代。

この10年間でどのように変化していったのかを綴ります。

ディスコ90年代前半はジュリアナ一色

ディスコの90年代前半と言えば、ジュリアナ東京です。夜遊びにおけるバブル崩壊の影響をさほどかんじさせなかったほどのパワーを皆が感じたことでしょう。そしてウォーターフロントブームと共に爆発的なジュリアナ東京の人気の影響もあり、80年代に黄金期を築いた多くの他の人気ディスコ店は徐々に集客力を失っていきました。

東京にはジュリアナ東京ほどの大箱のディスコはなく、あれほどの大きな空間でサウンドと照明に酔いしれて踊る者たちには、他のディスコがもの足りなくってしまったのは事実でしょう。

エイベックス・レイヴ’93

東京ドームジュリアナはメディアにもガンガン露出され、日本全国にジュリアナ信者が生まれた93年にはエイベックスがエイベックス・レイヴ’93と題し、東京ドームに5万人を集めるイベントを敢行。

このエイベックス・レイヴ’93により、東京のジュリアナ層はもちろんのこと、日本全国の「我こそがディスコクイーン」というつわもの達のド派手な衣装に身をまとった若者で東京ドームがいっぱいになるという凄まじい光景となりました。

私も足を運びましたが、丸の内線の後楽園駅~JR水道橋駅周辺はもう異様な光景でした。この頃がジュリアナのピークというか、ジュリアナが終焉に向かっていた地点であったと今となっては思います。

その頃に東京で次に大箱で流行っていたディスコは六本木のエリアか日比谷のラジオシティくらいでしょうか?とにもかくにも小箱の名店は集客力をあれよあれよと失っていきました。とはいえ、90年代の前半では他のディスコ店もまだ健在ではありました。

日拓グループではジュリアナの人気に対抗し、ジュリアナの過激化した衣装をターゲットにボディコンナイトなどの策をとっていたり、ラジオシティも従業員の名刺持参の女性客を曜日指定で無料にしたり、ツインスターマハラジャ系列はパラパラブームの仕掛けを開始。

そのようなディスコの状況の中、特に西麻布のイエローは独自のクラブ路線で着々と「ディスコなんて・ボディコンなんて」というファン層を獲得。更にその頃の六本木では91年9月にオープンしたエロスやスクエアビル10階のRホール(93年7月オープン)や青山のマニアック・ラブ(93年12月12月オープン)やアポロ(94年9月オープン)なども西麻布のイエローほどではありませんでしたが、徐々に人気を集め始めていました。

そして、90年代の半ばをむかえます。

ディスコ90年代半ばは人気店が続々と閉店

94年8月31日ジュリアナ東京閉店。爆発的な人気が裏では様々な糸が引かれ短命に終わりました。そしてディスコの代名詞でもあった「東京マハラジャ」が97年9月に、同じく97年9月に「エリア」閉店、98年1月に「ラジオシティ」閉店、と名店が閉店ラッシュとなりますが、逆に90年代半ば過ぎまで生き残った理由には、第2次パラパラブームがあげられます。

ジュリアナに陰りが見え始めた頃からツインスターやマハラジャ系列はパラパラブームの仕掛けを開始しておりましたが、それが現実のものとなりブームになります。時代は繰り返すということか・・・。ツインスターや東京マハラジャはもちろんのこと、ラジオシティや日拓グループ(エリア・ロンドクラブアルクス)のお店もパラパラナイト系のイベントを毎週打ち、パラパラは全国に広がっていきます。

そのようなパラパラブームが来る直前に、エイベックスを中心として東京マハラジャの経営者の成田社長や呉常務、更に元ジュリアナの幹部従業員により六本木で新たな大箱ディスコの出店にむけて動き始めておりました。

最後のディスコと呼ばれたヴェルファーレ

そのディスコが1994年12月にオープンした「ヴェルファーレ」です。

私が思うに、ディスコと呼ばれる最後のオープンのお店がこのヴェルファーレであったと思います。オープン時には都内の有名ディスコの優秀な人材が引き抜かれており、初めて行ったときは「えっ?○○さん!」と、スタッフは知った顔ばかりであった事を思い出します。

エイベックス側からは、「みんなで一緒に大型店をやることでこれからのディスコ業界を盛り上げていこう!」と言う働きかけをしたと言われています。さすがに、ジュリアナ閉店の年の暮れにオープンということだけあり、ジュリアナの衣装の過激化に至った短命の教訓を活かしてか、フロントのドレスコードは特に力が入っておりました。しかも、フロント周りはマハラジャ系列のスタッフばかりでした。

女性であればジュリアナのようなド派手なボディコン、男性であればド派手なルナ・マティーノ系は入店を断られており、女性はコンサバ系で男性はスーツという社会人をターゲットにしたお店であることはすぐに理解できました。

しかし場所は六本木であり更に大箱のディスコという事もあり、芸能関係や音楽関係やマスコミ関係や広告代理店関係等、いかにもというお客さんがオープン当時はたくさん詰めかけており繁盛していたと思いますが、そのような方々の社交場?であった感は否めません。

吹き抜けの3階にあってメインフロア全体を見下ろせるロイヤルビップルームは会員制でヴェルファーレのVIP会員は10万円ほどであったと思います。

そして90年代後半に続きます。

ディスコ90年代後半

この頃になると80年代のディスコの名店はほぼ閉店。そんな中、唯一元気であったのがツインスターでした。


第3次パラパラブームに乗っかっておりました。90年代半ばからそうですが、パラパラ=ツインスターという図式は成立しており、まさにパラパラの聖地がツインスターであり、ツインスターで生まれたパラパラが全国に広がるという状況でした。

第3次パラパラブームは98年の後半くらいから始まり、学生サークルを中心とし、今では解散したSMAPの名番組であるスマスマにてキムタクがパラパラを披露したことも火種となり、ゲーセンなどではナムコが「恋のパラパラ大作戦」、コナミから「パラパラパラダイス」と、ゲームの世界まで広がった大きなパラパラブームは2000年に入っても続き、2003年の8月にツインスターが閉店となり終焉。

また、90年代の後半のヴェルファーレに関しては、ジュリアナ東京と同様に地方から来た人が訪れる観光名所のような雰囲気にもなり、遊び慣れたおしゃれな人間たちはクラブへと移行し集客に難色が出始めておりました。

現在のエイベックス・グループ・ホールディングス株式会社の代表取締役社長CEOである松浦勝人さんはその当時は専務でした。

松浦さんはそんなヴェルファーレを98年にニューアルさせました。スタッフの制服や建物の内装を変えたというのもありますが、ヴェルファーレ従業員のいわば社員移動という名のリストラという説もあり、ディスコ業界に愛着を持っていた人間はそこで辞め、もうディスコは充分やったというスタッフはヴェルファーレの仕事からエイベックスの仕事に移った方も多かったです。

一方、ディスコで遊び慣れた者たちは、落ち着く人もいればクラブに遊び場を移すというのが90年代後半であったと思います。青山のアポロやパイロンなども流行り、青山キング&クイーンの跡地がミューズと言うクラブとなり流行。そしてそのミューズの経営者が渋谷の並木橋にフーラをオープン。特にこのフーラはいついっても大盛況でしたね。

まとめ

バブル崩壊と同時に出来上がった人気不動のジュリアナ東京でボディコン狂気乱舞から幕を明け、東京ドームがディスコ化した日もあり、第2次、第3次パラパラブームが起こり、後半には「ディスコ」から「クラブ」へ完全に移行した時期でもあり、最後のディスコがヴェルファーレであったという事です。

90年代に人気を博したクラブは、エロス、Rホール、イエロー、マニアックラブ、アポロ、クロノス、クラブエイジア、ハーレム、フーラ、渋谷パイロン、青山パイロン、ミューズ辺りでしょう。

この90年代という10年間はこの業界ではある意味激動の10年間であったと思います。

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