ディスコの80年代は東京も地方もヒット曲を交えて黄金期!

1980年代のディスコは後半のバブル絶頂期も加え、まさに黄金期と呼ばれております。

当時のディスコでは、どのようなお店が流行り、どのようなヒット曲があり、通う人達はどのような状況であったか?を中心にディスコ文化を徹底して綴ります。

ディスコ80年代の東京の様子

1980年代は、まさにバブル経済の前兆~真っ只中の期間。まずバブル経済前兆の期間である80年代前半においてはサーファーディスコブームと呼ばれております。

ファッション雑誌のJJや、サーファー系雑誌のFineなどにおいても当時のディスコのお店の紹介が後を絶たず、若者はそのようなメディアにモロに影響され、ディスコという空間へ通う事が大人への入り口とされておりました。

サーファーといえば聞こえが良いかもしれませんが、本当にサーフィンをしていた人は1割、あとの9割は丘サーファーであり、サーフィンをしている爽やかBOYを見よう見まねのファッションに包まれた優等生な真面目君~ヤンキーまで多岐にわたります。

ディスコに行って女性をナンパしたい・脚光を浴びたい ⇒ 女性にウケるのはサーファー ⇒ 雑誌等を参考に髪型・ファッション・香水・タバコ・持ち物等をマネる、という図式ですね。今の若者には理解しがたいかもしれませんが、80年代の男性全てではありませんが多くの男性は本能のまま、とにもかくにも女性にモテたい願望剥き出しでした。

当時はインターネットも無い時代ですので、テレビや雑誌の影響力は相当なものです。もちろん若者だけではなく、30代・40代も夜遊びはディスコ中心であったと思います。

80年代前半このサーファーディスコブームにおいて東京で特に流行っていたディスコを検証

当時の六本木の状況

六本木においては、やはり六本木スクエアビル(通称:ディスコビル)が凄かったですね。箱自体は大きくはありませんでしたが、地下2階~10階までの12フロアの10フロアが全てディスコというビルでしたから。

その3階に80年3月に「GIZA:ギゼ」がオープンし、ディスコ界に初めてお立ち台というものと寿司バーというものが設置され話題になりました。スクエアビルではこの3階の「ギゼ」と8階の「ネペンタ」が特に人気を博しておりました。

その後、他のフロアの運営者も差別化を図り集客するために負けじと店名や内装を変えて続々と新しい店舗が生まれては閉店し、また新しいお店が・・・を繰り返しておりました。

スクエアビル以外においては当時のディスコフリークは口を揃えて伝説のディスコと呼ばれる「キサナドゥ」ですが、伝説と呼ばれる要因には、入店の敷居が高かった事やVIPルームを初めて設置したこともあり、客層はバツグンに良かったのもありますが、短命であったことも伝説の要因の1つであったのかもしれません。1979年5月にオープンし、80年の夏には閉店しているんですよね。

その跡地に出来た「ナバーナ」、そして「マジック」や「レキシントンクイーン」なども大変な盛況ぶりでした。

当時の新宿や渋谷の状況

新宿においては、「ゼノン」「カンタベリーハウス」などが、渋谷においては「ラ・スカーラ」「スパジオ」などが、代表格として圧倒的な人気を誇っていたと思います。

ディスコに遊びに行く人々の目的の一番は出会いであったと思います。チークタイムでパートナーを見つけるのに必死になっていた記憶が蘇ります。しかし82年の6月に新宿歌舞伎町にて店名は敢えて伏せますが、東宝会館(歌舞伎町のディスコが何店舗も入っていたビル)のあるディスコでナンパ殺傷事件が起きてしまいます。

この事件を機に深夜営業の禁止及び未成年者の入店規制などの取締りが厳しく強化され、あの深夜の歌舞伎町で何店舗も運営されていた新宿のディスコに陰りが見えていきます。83年辺りからディスコのブームは下火となり、東京ではお洒落なカフェバーやプールバーなどが徐々に流行りはじめました。

とくにプールバー(お洒落をしてお酒を飲みながらビリヤードを楽しむ)においては、86年にはトムクルーズとポールニューマン主演の映画「ハスラー2」の公開と同時に開店ラッシュとなり、男性が女性をプールバーに誘いデートをしながら格好良いところを見せたり、教えてあげたりというのが定番となりました。

バーボンのロックを飲みながら、女性の前でマッセ(スピンをかけて球を曲げる打ち方)を決める!しかしこのマッセですが、台に腰をかけて上からはじくのですが、下手な人間がやると逆にみっともないというか滑稽というか・・・(笑)。ですので、これに憧れた男性が練習の為に男性同士でたくさん通った事もプールバーの繁盛を支えた要因です。

東京でカフェバーやプールバーが徐々に浸透し、ディスコが下火であった頃に関西では着々と伝説のディスコが産声をあげてきておりました。82年の大阪のマハラジャがオープンし、次に83年に京都にマハラジャがオープン。このマハラジャがきっかけで80年代半ば~後半にかけて高級ディスコによるディスコの黄金期が東京でも再燃することとなります。

ディスコ80年代の後半

80年代の半ばである1984年に伝説のディスコ「マハラジャ」が麻布十番に、1985年に「エリア」がオープンし、91年前半まで続く日本のバブル経済と共にディスコ黄金期と呼ばれる第二次ディスコブームが幕を明けます。

週末ともなれば1日3軒のディスコをハシゴするなど普通の状態でした。過去のその状況を目で見たいという方は、阿部寛主演の「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」をご覧になられてください。当時の様子が大変わかりやすく描写されております。

上記のような高級ディスコがオープンしてからは、ドレスコードも加わり、男性はDCブランドのスーツに身をまとい、女性はワンレン・ボディコンを定番とし、よりお洒落をしてディスコに足を運ぶようになりました。当サイトディスコの衣装(コスチューム)を参照。

バブル当時の嘘のような本当の話

当時の20代~50代のディスコ好きの男性はバブル経済の恩恵を受け「お金」を持ち、上でも記しましたが本能のまま女性を求め夜遊びに明け暮れます。たとえばディスコで出会った女性と仲良くなる為に、次のディスコへ一緒に出向きますが、多少の距離がある場合はタクシーを使うのですが、当時の六本木はタクシーが全くつかまりません。

誰もが足代はタクシーを使うので、タクシーの供給台数が需要に全く追いつかないという状況です。するとバブル最中の男性は、たまに見かける空車ランプのタクシーに向けて1万円札を持って手を上げるのです。ようは、「近くであっても俺は1万円払うから乗せてくれ!」という意思表示を行いタクシーの乗務員にアピールするわけです。

すると他の者が2万円持って手をあげるというセリ状態。今では信じられない本当の話です。えっ?80年代バブルの時代にクルマくらい持ってないの?と思われるでしょうが、もちろん高級車を持っていようが、六本木等の都内の繁華街の夜には駐車する場所など一瞬で埋まってクルマで遊ぼうにも駐車する場所を探すだけで苦難であり、例えとめるところが見つかったとしても駐車場から目的地まで電車かタクシー(なかなかつかまりません)になってしまうのです。

このような状況ですので、ディスコに通う女性は夜遊びしようが、男性が全ておごってくれるのが常識なのでお金は一切必要ないのです。

当時の肉食系男子は女王様の餌食

当時の遊びなれた女性は、ミツグ君、アッシー君、メッシー君、ハウス君、顔見知りのディスコの黒服君が何人いるか?などが、一つのステイタスにもなっておりました。

ミツグ君:その名のとうり、貢いでくれる男性の意味。世はバブルです。貢いでもらうモノのレベルが違います。80年代はルイ・ヴィトンやセリーヌやフェンディなどのバッグとか、ピンキー&ダイアンやJ&R等の洋服、アクセサリーなど、見た目が良い女性は、貰うのが当然のような世界でした。もちろんミツグ君と名が付く男性は本命の彼氏ではありませんので、貢ぐだけでご褒美もありません。

アッシー君:単なる足です。終電に乗り遅れようがアッシー君がクルマで迎えに来て家まで送ってくれるという事。こちらも、もちろん単なる足ですので、送ってもらうだけで男性にご褒美は一切与えません。

メッシー君:食事代を全て会計してくれる人です。あそこのあれが食べたいから連れていって!ごちそう様~!で終わり。

ハウス君:都内からおうちが遠い人が利用する都会の別荘という感じ。都内の高級マンションの一人暮らしの男性に泊めてもらう為だけの関係。これまた泊めてもらおうが、男性には絶対に手も触れさせません。

すごい世界ですね。今の若者が聞いたら「男側に何のメリットがあるの?」「バッカじゃない!」と軽く言われそうな事を平気で行う男性はたくさんいました。今で言うところのAKBの同じCDをたくさん買うことに感覚が似ているのかな?とふと思いました。私にはよくわかりませんが・・・。

当時のディスコはまさにディスコクイーンの天下

特にお店のディスコクイーンともなれば夜の世界ではちょっとした有名人でしたね。とにかく女性がもてはやされ、男性はそのような女性にお近づきになりたいから利用されても頑張る!という感じでした。

まぁ、このような状態ですので、ディスコに通う男性も女性も、つきあっている異性が何人もいるという世界であった感は否めません。もちろん、真面目な方もいらっしゃったと思いますので一応全員が全員そんなことは無いとフォローさせて頂きます。

80年代半ばからマハラジャが日本全国天下統一

話は戻りますが、80年代半ば~後半はまさにディスコの黄金期であったことは不動の事実であり、その代表格であったのはやはりマハラジャです。

大阪発祥のマハラジャはフランチャイズ展開をはかり、東京マハラジャのブレイクと同時にメディア露出が多くなった後はマハラジャブランドが確立され、北から南まで日本全国に数十店舗。大きめの都道府県には1都道府県の中に数店舗もあるという不動の地位を築きました。

なぜマハラジャが世にウケたのか?当ブログの東京マハラジャの記事をご参考にされてください。

結局は、高級ディスコの登場(入店チェック:ドレスコード、チケット制を用いた飲食類の質の高さ、VIPルームの設置、非日常を感じられる徹底した内装とサウンド、お立ち台の設置)というものがバブル期と並行して波に乗ったのではと思います。

マハラジャ以外でもマハラジャに対抗して差別化をはかって成功したディスコは多いです。

大きな特徴がありマハラジャ以外で特に人気を得た80年代後半のディスコと言えば

エリア:六本木の高級ディスコであり大箱でマハラジャより客層を少し大人に設定し、マハラジャと人気を2分けするくらい流行りました。

Jトリップバーダンスホール:キンキンキラキラの高級ディスコに対抗し、あえてアートとカジュアルな層を取り入れ学生に人気となりました。オーナーがテレビ出演にて「ボディコンだけが女じゃない!」と言い放ったのが印象的でした。Jトリップブランドは人気となり苗場スキー場にまでオープンし話題に。

ラジオシティ:オープン時に日比谷という場所に大箱のディスコなんて流行るのか?と誰もが疑問視しましたが、ターゲットをスーツ姿の社会人と丸の内のOLに徹底的に絞り、見事に成功。入口が地下鉄の通路にあった為、金曜日の地下鉄通路に長蛇の列ができることがメトロでも有名に・・・。

トゥーリア:出来上がる前から一棟の建物の中に高級ディスコに高級レストランや高級バーが一緒に存在する超高級ディスコが誕生すると話題となり、オープンと同時に大盛況を遂げるも照明落下事故により短命におわりました。

サーカス:横浜のサーカスというクラブが六本木スクエアビルの10階にオープン。ユーロビート主流であった当時のディスコにあえてブラックミュージックオンリーというスタイルがウケて大盛況。

King&Queen:こちらはマハラジャ系列ですが、マハラジャよりも客層を大人にしドレスコードも更に厳しくし、一時は一番いい女が集まるディスコとしてトップに君臨。

その他にも、人気のディスコはたくさん存在しましたが、伝説のディスコであるマハラジャ以外としては、特に上記のお店などは特に各々コンセプトの差別化をはかり成功した代表格といえると思います。

ディスコ80年代のヒット曲

80年代のヒット曲をあげると正直キリがありませんね。毎年毎年ヒット曲は数十曲は生まれ、それが10年となれば何百曲!そこに各個人の嗜好が加われば、ヒット曲の代表格をあげるのは至難の業ですね(汗)。

とは言いながら、私の思う80年代の代表ヒット曲は当サイトにジャンル毎にまとめておりますのでどうぞご参考に懐かしんでください。

ユーロビート80年代【盛り上げタイム 名曲30】

ユーロビート80年代【通常タイム 名曲30】

哀愁ユーロビート│絶対はずせない厳選10曲!女性ヴォーカル編

ディスコミュージック80年代【早い時間帯 名曲15】

ハウス・ブラック ミュージック80年代【名曲30】

【ディスコ好きが集まり、ライブで語り合うチャンネル】

YouTubeバブル ディスコの舞台裏

【マハラジャ風ノンストップディスコミュージック】

YouTubeディスコメモリーちゃんねる

まとめ

70年代のジョントラボルタの映画 「サタデー・ナイト・フィーバー」のヒットによる生じた第一次ディスコブームよりも、80年代後半のバブル期と重なった第二次ディスコブームがディスコの黄金期であったことは間違いないと思います。

経済のゆとりから本能のまま遊びまくる楽しみを提供してくれたのがディスコであり、宮殿のようなゴージャス内装の中で多くのヒット曲に酔いしれながら照明ライトを浴び日常を忘れて踊りながら、異性を求めるにはうってつけの場所でした。

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